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MUNICH AIR DISASTER

(画像は後述リンク先AFPより)1958年2月6日
マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機(ブリティッシュ・エアウェイズ)がドイツ・ミュンヘンのリーム空港で悲劇に遭遇
乗員・乗客43名のうち、選手8人を含む23名が死亡したという事故があり、その追悼が行われたということです。
名付けて「ミュンヘンの悲劇」
また、9日のプレミア26節に行われるマンチェスター・シティとのダービーマッチでは
マンチェスター・ユナイテッドは1試合限定で、黒の腕章にスポンサー名を外した1950年代当時の1番から11番までのユニフォームを着用し、
マンチェスター・シティも特別なユニフォームを着て試合に臨むといいます。
ミュンヘンの悲劇から50年が経過し追悼式が行われる(画像は道路に刻まれたチームの主力選手で事故の犠牲者故ダンカン・エドワーズの名前、ダンカン・エドワーズについてはサイトで検索すると多数あり)
「ミュンヘンの悲劇」から50年の現地6日、
マンチェスター・ユナイテッドはオールド・トラフォードで追悼式を、リーム空港でもささやかな追悼式が行われたそうです。
上記リンク先から引用しますと
>>事故は、欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)に出場していたマンチェスター・ユナイテッドが、アウェーでユーゴスラビア(現セルビア)のレッドスター・ベオグラード(Red Star Belgrade)と対戦後、英国へ帰国する途中に起きた。
マンチェスター・ユナイテッドがチャーターした英ブリティッシュ・エアウェイズ(British Airways)は、英国に向かう途中、給油のため当時吹雪に襲われていた※ドイツのミュンヘン空港に立ち寄り、そこで離陸に失敗した。
事故で肺を損傷しながらも、1966年W杯イングランド大会で優勝を果たしているボビー・チャールトン氏は、多くのチームメイトを失った喪失感に苛まれながらも、「ミュンヘンで起きた出来事を心から取り除こうとしたことは一度も無かった。ミュンヘンで起きたことはあまりにも大きく、衝撃的だった」と語った。
チャールトン氏は先日、アレックス・ファーガソン(Alex Ferguson)監督から招待を受け、クリスティアーノ・ロナウド(Cristiano Ronaldo)らクラブの若手選手に事故の話を聞かせている。>>
※現在の現在のミュンヘン国際空港とは異なるそうです。
またWiki によると
その背景として
★1955年から開始されたヨーロッパのクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として、当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドが参加。
★この参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、国内リーグの日程を調整してもらうこともできずに、強行日程を強いられた。
★準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、レッドスター・ベオグラードと対戦。
ホームで2-1と勝利し
2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードで3-3のドロー
総計5-4で準決勝進出を果たした。
(ちなみにリーグ戦ではアーセナルを5対4で下したばかりだったという)
★今は当たり前になった水曜・土曜の連戦も、当時はまだ飛行機の事情も良くなく、移動に労力を費やしていた。
まして当時、共産圏の国で試合をしてまた帰ってくるというのは信じがたい強行日程。
さらに、土曜日にはブラックバーン・ローヴァーズとの上位直接対決が控えており、帰国を焦っていた事情もあったという。
★更に、この時期は欧州全土を寒波が襲っていた。
■原因
☆英国欧州航空(BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れ、そのためベオグラードを1時間遅れで出発。
☆当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行できずミュンヘンに給油のために立ち寄った。
☆給油後、2度離陸を試みるがエンジン出力が上がらず中止。
不安に駆られた乗客の中には当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれは犠牲者を増す結果となってしまう。
☆午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸に必要な速度に達せず、機体は空港の端のフェンスを突き破り空き家に側面から激突して大破。
☆乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが爆発の危険を顧みず命がけで助け出した。
☆原因として当初、翼の上に付着した雪または氷が影響したこと、
またこのことについて操縦士が判断を怠ったためとされたが、後の事故調査委員会の調査によると、離陸前の写真から翼に異常はなかったことが判明。
☆更に操縦士の証言を元に実験を行うなどして検証した結果、滑走路に積もったシャーベット状の雪または氷が機を失速させたことが明らかとなり、操縦士の責任ではないことが明らかとなった。
☆この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。
しかし、機長のジェームズ・セイン(James Thain)は二度と操縦桿を握ることなく、54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏を営み暮らしたという。
「ミュンヘンの悲劇」から50年、マンU本拠地で追悼式
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